母の事 すい臓がんと闘った4カ月
私のお母さんはすい臓がんで亡くなりました。
49歳でした。
がんが見つかった時はステージ4B
余命は3か月と宣告されました。
7月末に見つかったので来年まで持たないだろうと言われていました。
お医者さんに宣告された時は目の前が真っ暗になりました。
大好きだったお母さんが余命3カ月。涙が止まりませんでした。
どうして。お母さんが…と何度も思いました。
先生に何度も質問しました。
「手術じゃ治せませんか!?」
「私のすい臓を移植してなおしください」
無理だとは分かっていました。でも泣いてすがる思いで先生に話しました。
先生には「手術をしてもすい臓以外の内臓器官に無数に転移しているので手術は出来ません。できることは進行を少しでも遅らせること。抗がん剤を使います。」と言われました。
すい臓がんは発見することが難しい病気です。発見することが出来てもステージ3期以降が多いそうです。
ステージ4までの進行になると治療ではなく延命治療や症状を軽くする緩和治療が主となります。
癌が見つかっているのにどうして治療しないの?延命??緩和治療??
信じたくありませんでした。
先生に宣告された後、お母さんに話すかどうかを家族で話し合いました。
私はお母さんに話したくありませんでした。
家族は話した方がいいと言われました。
お母さんに話すことで心構えができる、最期までやりたいことをやらせたいからと言った理由でした。
私はお母さんに話すことを最後まで反対しました。
家族は私の意見を同調してくれました。
お母さんのいないところではずっと泣いていました。
なんで、お母さんが…といった想いをこらえることが出来ませんでした。
お母さんの前ではそういった想いを隠していつもどおり接していました。
でもさすがお母さんです。
私の小さな表情ですぐに読み取ることだ出来ました。
「お母さん、長くないんやろ?」
「そんなわけないいやん!ちゃんと治療してるから少しずつ良くなっていってるよ」
声が震えていたかもしれません。
「そうね。あんたがそういうとやったらそうやね」
「ちょっとトイレ行ってくるね」
病室から出るとたくさん涙が出てきました。
なんでなんで・・・
宣告されてから一カ月。
抗がん剤の影響でごはんを食べることが出来なくなりました。髪の毛が抜けたり、吐いたりと副作用が出ていました。
栄養を取らないといけないのでお母さんの手にはたくさんの点滴の針が刺さっていました。
ごめんね何もしてあげられなくてごめんね・・・何度も思いました
お母さんはこんなに辛い思いをしているのに何一つ弱音を吐きませんでした。
お母さんがこんなに頑張っているのに、私がしっかりしないと!!そう思いました。
宣告されてから2か月
抗がん剤で体重が10㎏減りました。やせ細ったお母さんが初めて私に弱音を吐きました。
「こんなに毎日点滴して頑張ってるのに何でよくならないの?どうして?」
言葉が何も出ませんでした。
「大丈夫だよ、よくなってるからね」
涙が出てきそうだったのでそのまま病室を後にしました。
宣告されてから3か月
先生から「これからお母さんはがんの痛みでとても苦しむことになるかもしれません。
最期におかあさんのやりたいことを聞いてください」と言われました。
癌の痛み?なにそれ・・・怖い。お母さんどうなるの…といった想いがありました。
複雑な思いを抱えながらお母さんに聞いてみようと思いました。
毎日毎日、お母さんのやりたいことを聞いて、なるべく出来ることは答えてあげようと頑張りました。
お母さんに聞いても自分のことより私のことを心配してくれ、
「あんたが好きなおでんを作りたい」と言われました。
こんなに苦しい状況に置かれているのに私のことを気にかけてくれるお母さんを本当にすごいと思いました。
母強しという言葉は本当だと思いました。
それでも毎日お母さんが望むことは全部やってあげようと思い、小さいことでも大きいことでも希望すること応えました。
お母さんは「ありがとう、あんたが子供でほんとによかったよ」
と言ってくれました。
いつもどおり学校が終わってお見舞いに行くと
「家に戻りたい」と言いました。
その言葉を聞いてすぐに外出許可を取ってくれるよう先生に相談しました。
先生はあまりお勧めしないと言われましたが、トンさんがしてあげたいと思うなら
やってあげてくださいと言ってくれました。
2日後に外出許可が申請され、叔父の車で家に戻りお母さんとの1日だけの生活が戻りました。
幸せでした。
入院してお母さんには普段言わなかった「大好きだよ」といった言葉をかけていたのですが、お母さんは笑って返すばかりでなにも言わなかったのですが、
この日は初めて「ありがとう あんたを生んでよかった 大好きだよ」と言ってくれました。
今まで我慢していた涙がたくさんこぼれました。
「あんたに辛い思いをさせてごめんね。幸せになりなさい」
お母さんは自分の余命が短いことに気づいていたんだと思います。
病院に戻ってからお母さんの容態は悪くなりました。
宣告されてから4カ月
体中が痛いと叫んでいました。
痛い痛いと叫び、常に唸っていました。
先生からは前々から説明されていた延命治療から緩和治療に移ります。と言われました。
緩和治療では強い痛み止めを使うので幻聴や幻覚なども表れることもあると説明されました。
実際、モルヒネを投与されたのですが、お母さんは虫が飛んでる!!と叫んだり「お母さん(私のおばあちゃん)が迎えに来てくれた」と呟いたりしていました。
最期の方は私を見ても誰だろうと分からなくなることもありました。
家族の思いはお母さんの痛みを少しでも取ってあげたいという一心でした。
最期の2日間
いつ亡くなってもおかしくない状態でした。
先生からは延命をするかどうか選択されました。
延命をしても大きい管を入れて心臓を動かすことになるだけでお母さんは意識はありませんと言われました。
私の答えは決まっていました。延命をする。
家族に相談したらみんな反対しました。
「お母さんは頑張ったよ。これ以上たくさんの管をたくさんつけたらかわいそうだ。もう休ませてあげよう」と言われました。
それでも大好きなお母さんが生きているということが私の支えでした。
その気持ちを家族は優先してくれました。
今でも感謝しています。
いつどうなるか分からない状況だったので病院に許可を取り、宿泊をすることに決めました。
宿泊して2日目の夜
モニター心電図が急に作動しました。
急いでナースコールを押し、先生を呼んでもらいました。
「ご家族に連絡してください!!延命はしますか?」と聞かれました。
「お願いします!」
用意してあった延命の器具を持ってきてる間に家族みんなに電話をして病院に来てもらいました。
戻ると心電図モニターは低い状態を維持していました。
家族も急いできてくれました。
先生は3分間ほど心臓マッサージをしてくれました。
汗びっしょりでした。
お母さん!!お母さん!!みんなここにいるよ!生きて!!
たくさん声を掛けました。
お母さん!ありがとう!!大好きだよ!!
延命器具を使っても心臓は元に戻ることは出来ず、
12月3日の午前0時ごろ49歳の若さで息を引き取りました。
宿泊して最期をみとることが出来てよかったと今でも思っています。
49歳の若さもあってがんの進行は早かったと思います。
しかし余命3カ月と言われていた母は4カ月生きることが出来ました。
癌はストレスを減らして楽しいことをすると進行が遅れると言います。
毎日お母さんの好きな音楽を聞かせ、大好きな本を毎日持ってきてたくさんマッサージしてあげました。
お母さんからは「どんな薬よりも一番効くよ」と言われました。
お母さんが亡くなって10年が経ちます。
そんな私が2人の子供を持つお母さんになりました。
お母さんはいつもあんたの孫を早く見たいと言っていました。
お母さんに可愛い子供たちを見せてあげたかった。
私にとって今でもお母さんはかけがえのない一番のお母さんです。
なかなかお母さんみたいに強くないけど、お母さんみたいな立派なお母さんになりたいと今でも思っています。
天国で見守っていてね(^^)